昭和五十七年七月十二日 朝の御理解
御理解第三十四節
ここへ参っても、神の言うとおりにする者は少ない。みな帰ってから自分のよいようにするので、おかげはなし。神の言うことは道に落としてしまい、わが勝手にして、神を恨むような者がある。神の一言は千両の金にもかえられぬ。ありがたく受けて帰れば、みやげは船にも車にも積めぬほどの神徳がある。心の内を改めることが第一なり神に一心とは迷いのないことぞ。
昨日、壮年大会が、壱岐の末永勇先生を講師にして一日信心の研修を皆さんなされました。終わりましてから伊万里の竹内先生が総括的な発表をなさっておりましたが。合楽には昔から親先生を中心にした、御信者さんのま、層というか、一番始めのころは親先生を桃太郎さんに例えるならば、それに犬、猿、雉、のお供の方達がちゃんとおられた、久保山先生、秋永先生、今の久富正義先生、また親先生を水戸黄門とするならば、いつの場合でも、助さん格さんが連いておるね、合楽のいうならば十人衆とか段々神愛会などが持たれるようになってからは、合楽の四十七人衆とまあ大石内蔵助を芯とする四十七士のま団結とでも言うでしょうかね、という言葉が使われた。
最近は合楽の百人衆と言われる、せめてその百人衆の一人位にはならしてもらわねばと思うておりましたら、今日の親先生のお話しを頂いたら、合楽千人衆という事になりますね、というお話しでした。私は総代さん方が毎朝ここで、皆さんがお聞きの通りのお届けがございます中に、教祖百年祭のお届けの中には合楽より千人、又は以上の団参のおかげを頂くことが、でけますようにという願いが、ございますたんびに、私はここで御取次させて頂きながら思う事ですが、もう言うならば、千人の方達がお参りが出来るように、申し込みは受けておりますけれども。
その折角、教祖百年祭にお参りをする合楽からの千人団体の内容が、いよいよ充実してまあこれから一年何カ月ある間にお互い信心のお育てを頂いてね、合楽千人衆としてのお参りが出来るようなおかげを頂きたいと、昨日竹内先生の、そのお話しから、これは成程、合楽ではもう合楽千人衆と言われるだけのものを感じるのです。
ですから問題は、その千人参りが出来ただけぢゃなくて、千人の人が合楽の千人衆と言われるほどしの人達の集いであり、また団結でなからなきやならないと、いうふうにこれは私の願いですけれども思うのです。
今日の御理解を頂いて、例えば昨日百人、百五名の壮年部の方達が本当に合楽の中心になれれるほどしの信心を、各自各自が進めて行かれたら大した、御比例になる事であろうと思いました。今日の御理解を頂いてです本当に神の一言は千両の金にも変えがたいという構えを持ってです、一言一言を自分の血にも肉にもしていくならば、昨日の大会テーマは神の願いに答えてというのでした。
本当に神願に答えられる合楽教会としてお陰を受けられるであろうと思いました。ところが実はどういう事かと、昨日私はおゆめを頂いたその夢が余りにも、余りにもというか、でしたから、もう全然その場面場面に構えが出来ていない事実を、それで昨日、朝の御理解にそれを皆さんに聞いてもらおうかと思うたら、壮年会の為にいう事を昨日頂いたから、その事を壮年会の方達に聞いて頂いたんですけれども、昨日の昼の研修にはあんなてんやわんやしてましたから、私がまとめが出来ませんでしたので、ヒントだけを与えて中原修行生がまとめました。
そえでそのまとめというのは、牛馬に至るまで実意を持って願え、何なりともというあの御理解でしたね、昼の御理解ですから例えばその無邪気に願うという事、ある方がもう何十年も前でしたがその方達のグループで草野球をなさる、電話が掛かって来るんです、おかげで先月は勝ちました、もういっぺんでよかですから勝せて下さい、それがたびたびなんですね、それでも何というですか、今でもやはり無邪気な信心をその人しとられますがね、けれどもそれではいけんでしょうが、邪気がないから神様は、あよしよしとこう聞いて下さるが、それが二十年経っても三十年経っても無邪気な信心では、もうおかげが受けられんですね、という話を中原君にお話をしました。
そして最後にこれは私の方の長女豊美が北京で生まれたわけですけども、あの、こうゴムで今あんなもんはないでしょうね、おしゃぶりというのが昔ありましたよ、こう口に吸わせる乳首だけのような感じの、おしゃぶりを与えておりましたが、もう止めさせよう止めさせようと思うてもなかなか止めません、それでもう五つ位までしゃぶりましたでしょうね、それである時夫婦で話し合ってもう寝ている時に、寝ながらでんちゃんとくわえとります。そればじーっと取ってからね、あの隠しとるんです。そすと夜中い目を覚まさんです、眠りながら口にくわえてないもんですから、枕元をこうこうとして探すんです。
それがいじらしくて見ちゃおられんから、もうしょんなかて、もうやめるちいうまで吸わせろというてから、その私どん、親の方が負けて吸わした時の事を頂きましたから昨日最後に書いております、おしゃぶり的信心どうぞどうぞというてから、それでは血にも肉にもならんようなおかげです。確かにおかげ受けるんです、けどもそれは今まで泣きよっても泣きやむ位なおかげは頂けてもです、それが血に肉になるという事ぢゃなくて、もうそれがくせになって、それを離せない、一生おしゃぶりで終わる信者がどのくらい多いかわからんですね。
今日の御理解を私は頂いて、本当に神の一言は、千両の金にも変えがたい有りがたく受けて帰れば、船にも車にも積めぬ程の神徳があるという、こういう、いうならば、おかげの受けられるお話を頂きながら、おしゃぶりをくわえておるから、それがやっぱ未練である取られないね、まあいうならば、どうぞどうぞと願うから、まあ見ちゃ、親としておられんから、まよかよかというて、それを与えますけども、それでは親も助からん子も助からん、とても神願成就などというような事は及びもつかない事になるのですが果たして、私は昨日の壮年会の方達に申しました事でしたけれども、お互いの一人一人がです、どうでしょうおしゃぶり信心ぢゃないだろうかと丁度延岡の矢北さんという熱心な信者がおります。
なかなか大きな建設業をなさっておられる、おかげを受けるんです。延岡分会のまあ中心になっておかげ頂いておられます、所が最近前のようなふうにおかげが頂けん、感じずにはおられないわけ昨日、朝の御祈念の後に前の晩から見えておりましたからね、親先生、今までの信心はもう本当におかげおかげの信心から一歩も出てなかった事に気づきました。改めて今日を境にね、真の信心を頂きたい、信心をわからせて頂きたい、もうそう頂く事になると、一切が真の信心を頂く為の材料ばっかりであるという事にきずいた、というお届けがございましたから、昨日百人のなら壮年会の方達にそれこそ矢北さんに右へならえをしてね、本気でおしゃぶり信心から、いうなら真の信心を頂きたいという願を私は持つ事でありそういう願いに掛ける事である。
神の一言は千両の金にも変えがたいものとする、信心を頂く事の為に、いよいよ頂いたそれが血に肉にもなる為に、いわゆる実験実証という、いうならば日々でなからなければならんという事になります。この百人の方達が、いうなら今日の御理解のようにです、船にも車にも積めぬほどの神徳が頂けるような信心になられた時に、その人達を合楽の百人衆といえるのではなかろうかね、明百年、合楽から千人参りの団参が、ただ誰も参れ彼も参れという、成程そういう申し込みが沢山ございましょうね、隣の方にも親戚の方にもというのですからね。
ですからそういう方達のなかにもです一年間のこの祈りの中に、確かに教祖百年祭に、教祖様がお喜び頂けるような信心の内容を持ってお参りが出来るような千人参りであり団参でありたい、内容を充実していきたい、皆さんどうでしょうかね、皆さんとてもそうです合楽百人衆、朝参りをしよるから百人衆というわけにはいかんと思う、今言うように、船にも車にも積めぬ程の神徳として、悟らしてもらい、頂けれる手立てを朝参りにかけておるというように、お互いの信心が変えられていくとね、末永先生の講題ぢゃないけれども、新しく生まれ変わるという講題の元でしたが、そういう日々新しく生まれ変わっていけれる信心とは、私本当に教えをいよいよ千両の金にも変えがたいものにしていく精進だというふうに思います。 いよいよその百人衆の信心の充実から成程竹内先生のお話の中にもありんますように、ついこのごろまでは合楽の百人衆であったが明百年祭を兆して親先生のお話を頂いておったら、これは、合楽に千人衆が出来るその千人衆の方達がいうなら構えが出来ての、信者が出来た時にはもういよいよ、神様のいはゆる神願に答えるという、いよいよ神様の願いに答えられる合楽教会の大発展があると思うです。
各自各自の発展が合楽教会の大発展につながる、そういうおかげを頂いて頂きたいと思います。
「どうぞ」